めも

触覚が欲しい

言葉を紡ぐこと

文字を紡ぐことは精神を安らがせること。

文芸部is 病巣。

でもそう考えるとレポートってどうなるんだっけ…?とか真面目に考えてしまった。

多分違いは、自分の中から言葉を紡ぐかどうか。ただ書くことも何らかの癒しにはなるだろうけど、安らがせてはくれない。

何かを紡ぐためには病まねばならない。逆に言えば、何かを紡げる人はきっと病んでいるのだと思う。病んでることを誇ろう。きっと、本当に精神がピカピカした人間は言葉なんて紡げない。自然に出てきてしまうから。

何かの壁とか、鬱屈したものとか、言おうと思ってヤメた言葉とか、汚いドロドロしたものとか、汗と青春とか、色んな肥溜めみたいなものを心の中に持っている人が、その中からちょびっとチューブを絞るように言葉を紡ぐんじゃないだろうか。

創作なんてもう、自分の中から出てきた物語をまるで自分が関与してないように書けるんだから闇が深い。それはお前の物語だ。受け止めろ。

創作できないのは、自分の肥溜めから搾り出すことを恐れているのか、肥溜めがないのか、肥溜めを認められないのか。さあ、どれだ。

堂々と自分の中から出てきたものに物語の皮を被せて、それを書ける6年間だった。もう終わってしまうけど。あと2回しかない。

きっとこれからも文字を紡がないと生きていけないから書いていくけど、そこに私の顔はない。顔があって、文字を紡ぐのって、ねえ。

文字にすると、絵が固定されてしまう。それは「しまう」ことだし、「ることができる」ことでもある。ふわふわしたものをギュッと固められるのが言葉だ。絵を、動的なものを、静止させられる。それでいて、静止が続いて動になる。さらには過去になる。紡いだ瞬間、自分から離れていく。どんどん冷たくなる。

動のまま抱えるのがしんどい時、言葉にして心の中に落ち付けようとするのかなあ。言葉にすると客観的に読めるから。誰かに伝えられるから。そう考えると、誰かに聞いてもらうって、受け止めてくれる人がいることよりも、文字にしていることに意味があるのかもしれない。文字にして、受け止めてるのは自分なのかも。

考えを変えると、世の中の人ってほとんど病んでて、なのになんか生きてる。そのなんか生きてる感覚がすき。人間って多分、なんか生きれる。生きる意志とは別に、何かに生かされてる。ありがとう、何か。

病んでないって思う人は、本当に病んでないのか、病んでることを気づかないふりしてるのか、はたまた。