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めも

触覚が欲しい

食べ物の好き嫌いがあったらダメって言われること

 

わたしは柚子が食べられない。昔は食べれた筈だけど、いつの間にか食べられなくなってしまった。柚子ってやつは曲者で、外食のときに柚子が入ってますよ!ってメニューに書いてくれてるのは殆どなくて、頼んでみて初めてゲ、ってなることがしばしばある。家では避けれるからいいけど。

食べ物の好き嫌い、子どもに親はよく矯正しがちだ。わたしのちっぽけなイメージだと、子どもは野菜が嫌いっていう先入観があるけど、実際飲食店で働いていると子どもより大人の方がさりげなくお残しが上手で、じゃあなんでこんな先入観があるんだろう?ってよく考えていた。それで思ったのは、子どもに食べさせようとする親がいて、その親を支えようとする取り組みがあるからなんじゃないの?って結論になった。

どうして好き嫌いがあったらダメなんだろう?って思う。子どもの頃に食べられないもの、でも大人になったら逆に好きになったって良く聞く話だ。じゃあ逆に、子どもの頃はどうしても(体が)それを体に取り入れたくなかったのだ。って考えちゃダメなんだろうか。じゃあ、じゃあってよく考えちゃうからこんなことを思うのだけど。栄養が偏る、とか言うけど正直その特定のもの(例えば人参)からしか取れない栄養ってあるんだろうか?そりゃ緑黄色野菜全部ダメ、とかなるとどうなるんだ?と思わなくないのだけど、少しの好き嫌いで食べさせようとどうしてしちゃうんだろう。

そこにある、好き嫌いイコール無くさなくちゃいけないもの、という考え方がすごく苦手だ。好き嫌いがある人はダメな人、っていう考え。

 

そうやって考えていると、某テレビの障害者に色々やらせる姿勢とわたしは被って見えてこうやって今どうしようもなく書いている。

某テレビも感動ポルノなんて揶揄されているし、そもそも日本人は感動ポルノが大好きだということは殆ど周知の事実だろう。でも某テレビの本質ってそれ以上のものがあるのかなあなんてふと考えてしまう。あのテレビは障害者に色々頑張ってもらって、その頑張る姿に感動していると感じる。でも、それはその頑張る目的となるものが、そもそも健常者の在るべき姿であるんだろう。(例えば、歩く、しゃべる、踊る など些細なことだけど)だから、こういうのが普通なんですよ、これが人間の在るべき姿なんですよ。って植えつけられているようにどうも思えてしまうのだった。もちろん、障害者の人ですら頑張ってるんだからあなたも頑張りなさいっていうメッセージも感じるけど。あなたはその些細なことができているから人間なんです、っていう自分自身に対する肯定も生じさせてしまうんだろうな。

同じ例だと、高校野球とか。あれは高校生イコール青春。青春イコール汗と涙とうんたらかんたら。みたいなのが在るべき姿だと思っているからそれに向かう姿勢に涙してしまうんだと思う。だって高校野球ほど大々的に取り上げられてるのって、ありますか?その先入観というか、植えつけられているものって本当に怖い。どうしてみんな球児とその応援してる人の涙と汗をあんなに嬉しがるんだろうね?わたしは岡田将生の汗と涙だけが欲しい。

 

話は戻って、だから、好き嫌い食べるのが当たり前っていう植えつけは本当に怖い。食べなくても死にはしない。そりゃ世の中美味しいものいっぱいあるから、嫌いと思っても、一年に一回くらいのタイミングでいい店で食べ直ししてみて欲しくはあるけど、あくまでもいい店で、自分が挑戦してみたくなったタイミングで、でいい。

柚子は相変わらず嫌いですけど、ぽえむが食べれるようにはきっとなりたい、そんな感じでした。