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めも

触覚が欲しい

気遣いレベルのこと

気遣いにはレベルがあると思う。というのは、さりげないものから、誰でも気づくものまである、ということで。別に人に気づいてもらうために気遣いをすることは全くないのだけど、気遣いは気付かれないとそれは気遣いとして認識されない。さりげない気遣いをいくら大盤振る舞いしても、それが相手に認識されないものであったなら気遣いではない。正しくは気遣いなのだけれど。

例えば、だ。複数の新入生にジュースどれにする?と聞いたとして、それが1.5リットルペットボトルであった場合と缶ジュースである場合では心的負荷は違うと予想される。ペットボトルはたくさんあったとしても、それを空けるのは気がひける人も世の中にいる。この心的負荷を減らすためには、あらかじめペットボトルを空けておき、(ペットボトルを空ける)という過程を減らし、単純に選ぶだけの自由にする必要がある。その点、缶ジュースは個人が自由に選ぶところから始まるから良い。保存の心配もいらない。

こういうこと。気にしない人は全く気にしないだろう。でも気にする人は気にしてしまうこと。そういうことまで気づいて先に配慮すること。それこそが気遣いだと私はそう思う。

この気遣いをするのは馬鹿らしい。だって、気づいてくれない相手に対してだったなら、それは徒労に終わってしまうわけだ。まあ、その気遣いを自然にしてしまうのか、あるいは意図的にしているのか、にもよるだろうけど。でも前者だったとしても、ある日突然嫌になるのだ。と私は思っている。いくら尽くすのが好きだからと言って、尽くしてばかりではいつか疲れるのだ。尽くすだけでもいいとなったとき、それは尽くすという行為が「相手に尽くしても良いと許される」ことの裏返しになる時だけだろう。

気遣いは馬鹿らしい。