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めも

触覚が欲しい

嫌いなこと

 

好きなことがたくさんある。その分きらいなこともたくさんある。

 

論理的、という言葉が嫌いだ。

文字自体が角ばっていて偉そうだ。

ううん、論理的、という言葉を偏って好む人が嫌いだ。

論理的、もとい、論理って、なに?妥当性?

 

妥当性はすごく大切だと思うし、逆に、主観、だとかの類はあやふやで頼りにならない。絶対がないからね。でも、私は論理的という言葉がやっぱり好きになれなくて。論理、って、なに?と思ってしまう。道筋。全ての道筋のスタートは自分の内から生じているのでは? もしそうなら、その道筋は自分が立ててしまえるのでは? なんていうか、どんなことにも自分の存在なしにはあり得ないと思ってしまうし、自分の存在が絡んでしまうからこそ論理ってなに?とぐるぐるしてしまう。

理科の実験もそうだった。だいきらいだった。教科書で教えられた反応にならないんだ。それは条件が揃ってなかったから、って怒られてやり直しさせられる。でも、もうそんなこと言ってしまったらこの実験自体の成功が誰かに決められてて、それ以外は全て無視されるってことでしょ? それについて先生たちは答えが一つ、だとか 反応は決まってるんだよ、ってニコニコしてたけど、私はすごくきもちわるかった。結局、誰かが決めたことをみんなが頷いてるだけじゃないの?って思ってた。誰かが考えて、それをもっともらしく他人に説いて。そのところだけ見たら全然論理的じゃないような。

ああ、そうだった。客観的、も。まあこれはただの思い出しで。

 

結局だいたいのことは全部自分から発しているのに、自分の存在がないものの方が良いとするのは、しかもそこに自分が全く関与していないと声高らかに叫ぶのは好きじゃないなあ。客観的でありつつ、主観的でもなくちゃ。と思っちゃう。なんだかなあ。言葉の鎧みたいでしょ。

 

 

あとはセミと、冬と、ゆず風呂と、歩くのが遅い人と、自分を他人に委ねてしまうこと。

 

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