めも

触覚が欲しい

花束みたいな恋をした 見た

はてブ、久しぶりすぎて書き方がわからず10分くらいかかった。


今日久しぶりに休みだから一日中レディースデーを謳歌して映画三昧してて、タイトルの映画見たら、フェイスタオルが全部びちょびちょになるくらい泣いてた。観覧車から後のシーンずっと泣いてた。(マジで)1人で鼻啜ってたけど、隣の人もだったからヨシ。


もう明日仕事だからただのメモだけど、肉じゃが作りながらパッと思ったことをメモにして残しときます。また直すかも。


映画、なんかぐわんぐわん良かった。靴とか、いろいろ、なんかぐっと来て文字にならない。菅田将暉は前髪あった方が圧倒的にいいのは好みの問題?普遍的意見?


あんな出会いをした2人、本棚がほとんど一緒なくらい好きなものが同じで。でも、今思い返すと作中で好きなものの共有はあったけれど、どこが好きか、どういうところが好きかという考え方の共有はなかったなあって。

映画でも、今村夏子のピクニックの方が好きだ、って話は出るけど、どこが好きかはメインの観点ではなかった。実写版の魔女宅も、何かとの比較でしか話はでていない。結局、同じものが好きって、似ているようで決定的に違うところもある。話し合いが必要だったんだと思う。例えば、イチゴが好きだとして、味が好きなのとビジュアルが好きなのは全然違う。その辺りをなあなあにしたまま、甘い蜜を吸い尽くしてしまったんだろうなあと思う。実際、好きなものを詰める作業は、異和を生むし(え?そんなところ?という違いが生まれる。そこを乗り越えるかどうかもまた別の作業だ)。でも、そこをしない限り人間はよっぽどの運がない限り一緒にはいられないんだなぁ、なんて主語のでかいことを思った。ナマモノだし、1人一個持ってるものだもんね。

ネコの名付けも、話し合いのくだりはなく、ただジジという事実だけだった。フィーリングで恋に至ったから、余計そうなんだろうけど。(っていうか、猫をジジってつけるって、どうなん?ジブリ好きならわかるけど、多分そういうところも全然考えてない感じがするんだよなあ)

昨今のオタクとも似てるかもな〜?とかぼんやり。自分の好きなものを、まるで自分のアイデンティティのように身に纏っている。大事なのは、その何処が好きなのかだし、そこが違うと同じ作品を好んでいても全く違うものを見ているかもしれないのに。同じものが好きというだけで全て同じかのように錯覚している。だから日本ってオタク多いんだろうなあ(主語でか)好きなものはアイデンティティじゃない。好きな自分こそがアイデンティティなのに、難しい。


話し合いのなさは、全編そうだけど、就職活動もそうで。絹との現状維持を望んだ麦が、就活を始める。麦にとっては、今の生活を維持する金を用意することが「現状維持」だったのかな?と思うし、絹にとっては、今の価値観のまま過ごすことが現状維持だったんじゃないかな?と思う。その辺も話し合わずに決めた麦が、転職を決めた絹を責めるところ、痛々しかったな。

敢えて言うと、男の人って結婚の時に「責任」って言葉を使い過ぎだと思う。何に責任を取るのか、取ってどうするのか、何のために取るのか、その辺も考えて言葉にしてほしい。麦も言ってたけど。暮らすために仕事をしてるって言って、仕事のせいでスマホゲームしかできなくなってて、それって仕事のために生きてるんじゃない?と思うし、うーん。大事なことかもしれないけど、自己満足の極みだと思う。守るとか、責任を取るとか、誰から何を、どうして?謎である。



別れ話の時に、結婚したらうまくいくから、結婚しようよって言うのもリアルだった。多分、すぐに結婚していたら、この二人はうまくいってたかもな、とか、そんなのよくあることよって巷の人がやってるみたいに愚痴っては宥め合う関係でいたんだろうなあ、と思った。

結局、趣味から子供というものに、会話の媒体?円滑油?が変わったらうまくいくよね、と思う。この2人、印象とか感覚では合うと思うし。コミュニケーションの道具さえ合えば。


とりあえず良すぎてパンフレットは買った。お酒も飲んだ。良いところ、話し合うのが良いよね、やっぱ。



2人でいる方が1人でいるより孤独だって言葉、麦と絹みてたら思い出した。パンフレット?作中?でも言ってたっけ?


2019年

気づいたらパスワードを忘れていた。

今年一回も書いてなかったから当然かもしれない。

徒然なる日記。


あんなに遠いと思っていたオリンピックが来年、いや、半年後に来ているらしい。

時間を感じる感覚が鈍くなって来ている。毎日が早すぎる。ネズミか。来年は子年らしい。

周りもどんどん結婚していく。子供も生まれていく。


大人になるってなんだろう?っていまだに考えてしまう、絶賛モラトリアム中の私はやばい。みんなはそんなこと考えることもなく、とりあえず歩いているの?それとも、もう大人なの?


子どもの権利条約について、最近改めて読んだ。

子供には権利がある。

詳細は省くけれど、子供は守られるものだという前提に基づいて定められている。

それを読んでいると、いいなぁと思ってしまう気持ちが4mmくらいある。

公的に、守られるものであると明言されている安心感が羨ましい。


守られたい。

優しくされたい。

大人になるって、自分を自分で守ったり、優しくできることだと思っていた。でも、全然まだまだ守られたいし、優しくされたい。

なのに、完全には守られたくないし、優しくされたくない。

自分を大切にしている自分のことを、尊重されたいのだ。自分の意思を超えては守られたくない。めんどくせぇ。


少しだけ、今年も成長したな、と思うことは、自分の中でその気持ちを保ち続けれるようになったこと。

誰かにぶつけずに、求めずに、この、どうしようもない寂しさとか、空っぽな感覚と少しだけ遊べるようになった。ほんのちょっぴり。だって、誰かだって、この感覚を埋めれるわけないって気づいたし。

結局、人はどこまで行っても孤独だけど、その分かり合えなさは自分の中だけで抱えておけばいいんだと思う。孤独を埋めるために他人は存在するわけじゃない。孤独は孤独で置いといて、また別の次元で人と関われたらいいな、と思うようになってきた。


最近、本当にようやく、恥ずかしいくらいに今更、他人に自分のことを分かってもらうことは無理なんだ、ということが判りかけてきている。頭の次元を超えて。

分かってもらいたい病は治らない、一生。でも、病を抱えたまま、人と付き合うことを考えれるようになってきた。

自分と誰かは、どれだけ仲良くなっても他人で、別の生命体で、1つにはなれない。でも、一緒にいたい、少しでも同じになりたいと思う気持ちこそが、人間のエネルギーなんだなぁと思う。主語がでかい。私は、思う。

分かってもらえないし、1つになれないから、わかり合いたいと思うんだ、なんて綺麗事はよくわかんない。それはエネルギー、生きていく上で必要な感情だとは思うけど、それなら今は分かってくれなくていいかな、と思ってしまう。


矛盾しすぎている。


自分のことは自分が一番知ってるし、むしろ自分のことしかわからない、だから自分にしか優しくできない。

それなのに、こんなにも優しくされたい。

なんでか考えたけどわかんない一年だった。


来年も考える。

多分、一生わかんないのにな。

青春が終わること

青春にアフターは許されるのか。

モラトリアム真っ只中、いつまでも自分のことを子供、大人でない存在と扱う人がうじゃうじゃいる世界。

いつまでも自分は許される側で、愛される側で、怒られる側で、規範に縛られる側で、立ち位置が変わるのを望み、待ち続けるみなさん。

いつまでも青春でいられるわけなんてないのに、過ぎ去りし日々をいつまでも思い出してる。

大人になる儀式を失った世界でオトナになれないのは仕方がないのかもしれない。

チャットモンチーが解散した世界に到達すれば、青春は終わるのかもしれないとふと思った。

ぷかぷか、その世界へ。

新年のこと

謹賀新年。

昔、お正月は好きでした。

口実がないと送れないあの人に、送れたから。

今ラインになって中高生はどうしてるんだろう?

一斉送信なんかできないから、個別に送ってるの?わざとらしくない?こわいね。

新年を迎えるといつも、大したことないなって思う。

ワクワクしたテレビと、ちっぽけな自分。

全然ワクワクなんてしない。ただ、不思議な感覚に襲われる。

今年も始まって行く。

今年は試験二つ、合格したいと思います。

頑張ります。

時が止まること

いろんな人と話してて、なんでこの人はこんなに幼いんだろう?と思うことがある。

もちろん、社会ではちゃんとしてて、リーダーとかを任されたりだとか、バリバリ仕事ができる人であるにも関わらず、だ。

人は、人生において、とっても後悔してたり、いつまでも忘れられない場面で時が止まってしまうんじゃないかと思うことがある。

その時から、その人は死んだまま生きてるんじゃないかって。すでに寿命を迎えてるんだから、一度生まれ変わらないと死んだままだ。

生き返るには、いつ死んだか、なんで死んだかって考えなきゃいけない。それが本当に難しいと思う。死んだ自覚なんてないから。なんて、ふと考える。

わたしはいつ死んだんだろう。

自分の中にあるちぐはぐな幼さはどこに取り残されているんだろう。

考えても分からないけど、いつか生き返りたいと思う。今を生きるわたしと、死んで蘇ったわたしが、重なるときが来ますように。

崇拝すること

オタクって、大変だな、と思う。

つい先日、友人と一緒にとあるライブに行った。

私は予習も何もせずに行って、曲とか、サイリウムとかも全然分かってない状態。友人から聞いたので、それぞれの色だけ分かってる感じ。

なんかみんな頑張ってるな〜と思いながら振ってたら、斜め横の人が、泣いてた。

そこからはもう、ステージどころじゃなくて、何がこの人を泣かせているのかそればっかり考えていた。

分からん…分からん…って唸ってたらその隣の人も過呼吸みたいな勢いで泣き出して、いよいよ唸る羽目になった。

それで、きちんと考えたことを記す。

私もとある人のオタクだ。

生きてるだけで尊い…とか言っちゃうからまるで宗教だと思っている。崇めている。讃えている。讃頌。

それで、オタクって大変だなあと思った。

多分、これは生きてる人を追いかけてるオタクに多いと思うんだけど、そういう人たちってすごく自尊心が低いと思っている。

自分にかけるエネルギーを、その人にかけてしまう。

生きる目的が、自分から、その人にチェンジしてしまうのだ。息抜きから、生き甲斐へ変わってしまう。まるでその人が自分の人生そのもののように思ってしまう。

どう考えても、テレビとか、動画とか、雑誌とか、全部追いかけるなんて自分のことを大切にしてたら不可能に近い。なのに、それをやらずにはいられないのだ。それが生きることだから。

そして、そうやって生きていると、多分本人が一生懸命生きてるところを見るだけで泣けてくるのだと思う。だって自分の一部だから。普段生きれていないところだから。

そして、そういうオタクを獲得してしまう本人は、だいたいオタクに対して、自分についてきて欲しい旨をのたまう。そこからさらに悪循環が発生する。オタクはさらに自分を捧げる。心臓なんて怖くない。お金なんてないさ。彼らは共通して貯める時間をくれ、と言う。あなたに使うために。

「あなたたちがいるから私がいる」

おそらく本人たちは心から言っているこの言葉。多分本当は、

「あなたはもう、私がいないとダメ」の裏返しになってしまえるんだろうなあ、と思う。

自分自身になってしまってるから、おかしいと思うとキッパリと引き離せる。それが多分、冷めやすさなんだろう。まあ、新しい自分の宿主を見つけるだけだけど。

そのライブで、本人たちは、「無理のない範囲で応援してください」と言葉をかけていた。ファンを労ってのことだと思う。でも、それはとどのつまり、「自分の人生を生きてください」と言うことで。心酔して生きている人にとってはひどく恐ろしい言葉だろうな、と感じた。気づくかは分からないけど。

(もちろんただのファンにとっては優しい♡ で済むと思う)

オタクって怖い。

言葉を紡ぐこと

文字を紡ぐことは精神を安らがせること。

文芸部is 病巣。

でもそう考えるとレポートってどうなるんだっけ…?とか真面目に考えてしまった。

多分違いは、自分の中から言葉を紡ぐかどうか。ただ書くことも何らかの癒しにはなるだろうけど、安らがせてはくれない。

何かを紡ぐためには病まねばならない。逆に言えば、何かを紡げる人はきっと病んでいるのだと思う。病んでることを誇ろう。きっと、本当に精神がピカピカした人間は言葉なんて紡げない。自然に出てきてしまうから。

何かの壁とか、鬱屈したものとか、言おうと思ってヤメた言葉とか、汚いドロドロしたものとか、汗と青春とか、色んな肥溜めみたいなものを心の中に持っている人が、その中からちょびっとチューブを絞るように言葉を紡ぐんじゃないだろうか。

創作なんてもう、自分の中から出てきた物語をまるで自分が関与してないように書けるんだから闇が深い。それはお前の物語だ。受け止めろ。

創作できないのは、自分の肥溜めから搾り出すことを恐れているのか、肥溜めがないのか、肥溜めを認められないのか。さあ、どれだ。

堂々と自分の中から出てきたものに物語の皮を被せて、それを書ける6年間だった。もう終わってしまうけど。あと2回しかない。

きっとこれからも文字を紡がないと生きていけないから書いていくけど、そこに私の顔はない。顔があって、文字を紡ぐのって、ねえ。

文字にすると、絵が固定されてしまう。それは「しまう」ことだし、「ることができる」ことでもある。ふわふわしたものをギュッと固められるのが言葉だ。絵を、動的なものを、静止させられる。それでいて、静止が続いて動になる。さらには過去になる。紡いだ瞬間、自分から離れていく。どんどん冷たくなる。

動のまま抱えるのがしんどい時、言葉にして心の中に落ち付けようとするのかなあ。言葉にすると客観的に読めるから。誰かに伝えられるから。そう考えると、誰かに聞いてもらうって、受け止めてくれる人がいることよりも、文字にしていることに意味があるのかもしれない。文字にして、受け止めてるのは自分なのかも。

考えを変えると、世の中の人ってほとんど病んでて、なのになんか生きてる。そのなんか生きてる感覚がすき。人間って多分、なんか生きれる。生きる意志とは別に、何かに生かされてる。ありがとう、何か。

病んでないって思う人は、本当に病んでないのか、病んでることを気づかないふりしてるのか、はたまた。